「信教の自由を守る岡山2.11 集会」講演レジメ


「封印された殉教・戸田元横浜教区長射殺事件が問いかけるもの」


日時:2015年2月11日(水)14:00より16:30
講演時間60分、質問45分
場所:カトリック岡山教会ホール
講師:佐々木 宏人(ジャーナリスト・元毎日新聞社経済部部長)


1、 はじめに
▼事件から70年・戸田事件の意味
〇戦後70 年「体験から、歴史への転換点」、「歴史修正主義者の登場」
特定秘密保護法、集団的自衛権、憲法改正問題など我々を取り巻く状況を考え
るに当たって、信教の自由、プロテスタント、カトリックともに戦前の戦争協
力問題。戦後もその総括をめぐって論争、今後さらに政治の流れの中で教会内
にも色々な議論が出てくると。その中で戸田師射殺事件を考えることは、今日
的意味を持っている。示唆を与える。


2、戸田教区長射殺事件とは何だったのか
▼昭和20年8月18日夕方-終戦3日後
横浜市保土ヶ谷区霞台のカトリック保土ヶ谷教会の聖堂の右手にある教区長
館(現在・司祭館、現状のまま残されている)で射殺死体で発見。


3、事件の背景-大空襲と殺気立つ桜隊
〇17 年6 月ミッドウエー海戦で敗北、18 年アッツ島玉砕、19 年7 月サイパン全
滅、10 月レイテ沖海戦連合艦隊事実上消滅、11 月本格的本土空襲、3.10 日東京
大空襲、B29 300 機で10 万人の死者、
〇横浜大空襲
1945(昭和20)年5 月29 日朝、B29 500 機で1 万人の死者、横浜の中心部
は完全に壊滅。山手教会は焼け残り、ここを特設横浜港湾警備隊桜隊が接収、
港に有った同隊本部もここに移設。戸田教区長は保土ヶ谷教会に7月末に移る。


4、射殺までの時間的経緯
〇8 月15日正午「玉音放送」
玉音放送を保土ヶ谷教会教区長館で何人かの信者と聞いた。「今後教会も発展
すると思います」といってワインで乾杯した。
〇8 月16日、海軍に教会の返却の勇気ある談判
保土ヶ谷教会を朝出て山手教会にでかける。フェリス女学院にいた責任者の
「主計大尉」らに単独で面会「米軍が進駐してくれば教会を軍隊が占拠してい
ることが分かれば大変なことになる。一刻も早く返却してほしい」と直談判を
した。帰りの駅でシスターに「今日は殺されるかと思った。連中、酒を飲んで
いて日本刀を抜かんばかりだった。怖かったよ」と語る。
〇8 月17 日
上京、関口教会の日本天主公教団に報告。
〇8月18日夕刻、射殺体で発見
〇なぜ憲兵説が有力か。
その日午後4 時前後に憲兵服姿の一人の男が司祭館に入っていくのを見た目
撃者(聖堂は保健所が入っていた)がいる。検視の結果も憲兵の拳銃の弾痕。


5、教会の事件への対処
〇「警察捜査を依頼しない」
「仮に犯人が摘発されたとしても、射殺された教区長の身の上になんの変わ
りもない、だからすべてを許して葬り去り、犯人の改心を祈ろうではないかと
の結論」(志村辰弥神父「教会秘話」中央出版社1981年刊)


6、十年後の犯人の自首
○犯人の自首
東京・吉祥寺教会に昭和32、3 年頃、「私が横浜で戸田教区長を射殺した犯人。
その罪をどう償えばいいでしょう」、40 歳前後、「佐々木です」と名乗ったとい
う。ドイツ人神父は東京教区本部に連絡。
〇「赦しを与える」
教区本部「『もう済んだこと』といって赦しを与える」。吉祥寺教会に伝えた。
犯人はそそまま姿を消し、消息は闇の中。
○自己保身ではなかったか
カトリック教会として歴史への責任として、事件を起こした犯人にその理由を
質すべき、その上で赦しを与えるべき。この点は当時のカトリック首脳部のミ
スジャッジではないか。戸田師を顕彰することは、自分達の戦争中の行動への
批判を引き起こす懸念がある。自己保身に走ったのではないか。


7、札幌での逮捕事件
▼射殺事件の前段の札幌での逮捕事件の経緯
〇逮捕の経緯
1942(昭和17)年3 月9 日逮捕。起訴状以下の通り。(「特高月報・昭和17 年3
月」による)
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戸田帯刀の軍事に關する造言飛語事件起訴状
本籍 札幌市北十一条東二丁目五十二番地
住所 同上
日本天主公教會北海道教區長館内
基督教牧師 戸 田 帯 刀
(當四十五年)
起訴事実
被告人は東京市神田區淡路町所在私立開成中學を經て同市小石川區關口臺町所
在天主公教神學校及びローマ市所在プロパガンダ大學等を卒業天主公教司祭の
資格を得て大正十二年歸朝し、爾来東京市内の各教會の司祭を歴任し昭和十六
年二月天主公教札幌教區長に就任同年七月樺太からふと教區長を兼任し現在に及び

たるものなるところ、同教の影響により國體觀念希薄にして兎角の批難ありたるが
昭和十七年二月二十七日札幌市北十一条東二丁目五十二番地なる自宅に於て小
助川六郎、中川宏、木内藤三郎及び林忠實の四名に對し何等根據なきに拘わら
ず「今こそ日本が戰争に勝って居るが亜米利加や英吉利は強國だから之を向に
廻して戰えば将来どうなるか判らぬ、最近南方に占領地を擴ひろめて居るが餘
あまり規則づくめでやると南方の者も嫌気がさして來るだろう、そして占領地が擴
ひろまれば擴まる程日本の國も困って來る之れ以上生活が不安になると國が亂れて來
る」と放言し以って大東亜戰争に際し軍事に關する造言飛語を爲したるものな
り。
(主任検事 大久保重太郎)
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〇勇気あるリベラルな発言
その後の日本の敗戦にいたる状況を見れば、実に的確に戦局を見通している
といえる。太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8 日から3 か月後、ハ
ワイの真珠湾奇襲攻撃での大勝利、次いで1 月にはフィリピン占領、ビルマ、
ボルネオ、ジャバなど日本から6千㌔まで戦線を拡大していた。国民は「我が
軍の勝利」に酔いしれていた時期だ。
〇キリスト教界・カトリック、プロテスタントとも歓迎
カトリック新聞、土井辰雄「日本天主公教教団統理者」(東京教区大司教)が
「シンガポール陥落を祝う」との歓迎の談話を発表した。また日本基督教団も
この年の10月、「日本基督教団戦時布教指針」を発表、「国体の本義に徹し大東
亜戦争の目的完遂に邁進すべし」と檄を飛ばしている。
〇無罪に
四人の神父に発言した10 日後、教会近くの路上で逮捕、3 月26 日起訴、6月
6 日札幌地裁で無罪。
〇宮沢・レーン事件との関係
プロテスタント支援を断る。「天使病院」(殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ
修道会・通称マリア院)で、戸田教区長を筆頭に残されたレーン夫妻と子ども
と老父の面倒を見る。


8、戸田師のカトリックへの回心とリベラルな考えのもと
▼戸田師の生い立ち
〇貧しい山村に誕生
戸田師は1898(明治31)年、日清戦争(1894年・明治27 年)の4年後、山梨
県東山梨郡西保村中(現甲州市牧丘町西保中)生まれ。養蚕農家の生まれ、6
人(男3、女3 人)兄弟の三男。水田はなく貧しい生活。
〇アメリカ、カナダに出稼ぎに出た兄たちの影響
(1904年・明治37 年)日露戦争後の不景気と洪水の影響で養蚕農家は打撃、生
糸価格は暴落、兄、二人10 歳近く年齢の離れた國継、壽晴はアメリカ、カナダ
に出稼ぎに出る。
▼戸田師のカトリックへの回心
〇開成中学入学
兄からの仕送りで東京・開成中学(現開成学園)に1913(大正2)年、入学。
開成中学は東京でも一高進学ナンバー1 の有名校。東京の優秀な生徒との受験競
争経て入学した。
〇カトリックとの出会い
カトリック信者だった伯父に誘われて下宿近くのカトリック本所教会に通い
はじめた。そして築地にある神学校に1915(大正4年)に入る。
〇ローマ留学へ、司祭叙階
小神学校を卒業後、関東大震災直後の1923 年・大正12 年11 月、教皇庁立の
ウルバノ大学に5 年間、留学。宣教対象の国の神学生が通うところ。昭和2(1927)
年、29 歳でローマで叙階、正式にカトリック司祭・神父に。
〇司祭叙階、帰国へ、アメリカ大陸での見聞
帰国へ。ローマからの途中、2ヶ月間、アメリカ、カナダの兄たちを訪問、壽
晴一家に洗礼を施す。アメリカ大陸を縦断、「ニューヨークの摩天楼」、進むモ
ータリゼーション、その圧倒的な豊かさに驚く。戸田師はウルバノ大学での他
国との神学生との交流、アメリカ大陸での体験、その経験がグローバルでリベ
ラルな考え方を身に着けた。アメリカとの戦争を聞き、直感的に豊かな国アメ
リカのとの圧倒的な力の差を思い出した。この戦争の無謀さを直感、敗戦まで
を読みとおして、逮捕につながり、射殺にいたる。
〇着座式での決意
横浜教区長に就任、当時の若葉町教会(現・末吉町教会)で昭和19 年10 月9
日に着座式。頭を丸坊主にして「「私は自分の生命をかけて、日本のため、また
世界平和のために働きます」と平和への決意を表明した。キリスト教における
愛と平和を願う精神、魂の自由、永遠の生命という真理を体現した。
○わずか10ヶ月の教区長
教区長在任中、大空襲、食糧難、疎開、教会施設の軍部による接収、毎日の
ように鳴る空襲警報、隣組との竹やり訓練。そして本来の教区長としての神奈
川、静岡、長野、山梨の教会での堅信式などの訪問、軽井沢、山梨県県下に疎
開した東京・神奈川等の主要修道院へのミサを上げるための訪問、憲兵や特高
に拘留される神父への対処、自分自身への監視、本当に身を削る思い。


9、戸田事件の昭和宗教弾圧史の中での意味
〇宗教が政治に取り組まれる
バチカン満州国承認(昭和9 年4月)
天皇に帰一‐国民意識の統一「国体の本義」(昭和10 年8 月)
宗教団体法(昭和16 年5 月)
靖国神社、護国神社参拝での踏み絵(明治末年~)
他宗教への弾圧、わがことせず無関心と自己(教団組織)保身―戦争協力へ


10、苛烈な宗教弾圧
〇プロテスタント―救世軍事件(昭和 15 年 7 月)
―ホーリネス事件(昭和17 年1 月~6 月)
―灯台社事件(昭和14年6 月)
〇カトリック ―ブスケ神父獄中死事件(昭和 18 年 2月)
―メルシェ神父逮捕・拷問事件(昭和20 年5 月)
〇他宗教 ―大本教事件(大正 10、昭和 10 年)
―ひとのみち教団事件(昭和11 年)
―ほんみち教団事件(昭和3、12年)
―創価教育学会事件(昭和18 年)


11、終わりにあたってこの事件の今日的意味
〇指針とすべきテーマ
戸田事件は民主主義社会での信教の自由、それを担保する言論の自由いかに
大切か―特定秘密保持法への不安、現実の問題として我々に突き付けられてい
る。戸田神父の生涯と一連の宗教弾圧事件を振り返るとキリスト者として時代
にどう時代に対処するか、戦後70 年に当たって考えるべき。
○1981 年2月25日、ヨハネパウロ2世の広島訪問のさいのメッセージ。
「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです。(中略)今、この時
点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないというかたい決
意をしようではありませんか。 暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりを持と
うではありませんか」(教皇ヨハネ・パウロ二世(1981 年「広島平和アッピー
ル」より)
〇マルティン・ニーメラーの言葉
(戦前7 年間強制収容所に収容される。ドイツ・プロテスタント神学者、告白
教会の指導者牧師(1892~1984)
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
彼らがユダヤ人を連れて行ったとき、私は声を上げなかった
私はユダヤ人などではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
以上